どうせ死ぬなら生きていても無駄じゃない?
こんにちは。『教育パパですが、何か?』です。
先日、「どうせ死ぬなら生きていても無駄じゃない?」と知人から聞かれた。
この言葉は真理を含むため非常に厄介である。
多くの人はこのことを考えることはないだろう。
なぜなら、心が相当弱くなったときにこの思考に陥るからだ。
また、「どうせ死ぬなら生きていても無駄じゃない?」という質問や相談は、多くの場合、心が弱っている人から心が弱っていない人になされる。
心が弱っていない人は、死ぬことがアホらしいとさえ思っているので、精神状態が異なる両者では当然ボタンの掛け違いが起こり、両者が分かり合えることは決してない。
ここでやってしまう過ちは、「そういう死に対する思考が間違っている」と否定してしまうことである。
この否定は心が弱っていない人からの上から目線的な意見となりえる。
この死に対する思考は一概に間違いとは言えない曲者なので、それを否定したところであまり意味がない。
じゃあ、どうするか?
「どうせ死ぬなら生きていても無駄じゃない?」と人が聞くとき、この言葉がカモフラージュになっていることが多い。
別の意図が隠されているのだ。
その人の他の何らかの心の辛さが裏に隠れているかもしれない。
じゃないと、無駄だと思っていることをわざわざ自分から発するほど無意味なことはない。
その人は真の辛さを自分から言えないのかもしれない。
SOSになっている可能性もある。
だから、周囲はその意図が何であるかを見抜くことが必要である。
周囲がその人の心を弱くしている原因を特定することが重要である。
そこを改善することなしに、その思考を否定したところで何の解決にもならない。
無駄な議論が生まれるだけである。
さらに極端な話として、その死に対する思考はその人の自己防衛手段にもなっている。
つまり、周囲から論破されない強固なロジックを持つことで、誰からも干渉されない聖域を作っているのかもしれない。
そして、このような死に対する思考の中に本質は存在していないのかもしれない。
もし心からそう思っているのであれば、誰にも質問や相談はしないだろうから。